いい夢みてね

『いい夢見ろよ』は、古くは、『8時だよ全員集合』の最後で加藤茶さんが言っていた台詞。今では、柳沢慎吾さんが、コントの最後に言うフレーズです…たぶん幸せって『いい夢を見る』ような心理状態にあることではないでしょうか?あなたと私が、そうなれるような話題を探して行きたいと思います.

「わかる」とはどういうことか 認識の脳科学

 

「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学 (ちくま新書)

「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学 (ちくま新書)

 
・知能とは、常に変化し続ける状況に合わせ、その時にもっとも適切な行動を選び取る能力である。ある状況に最適な行動を起こすには、複数のプランが必要である。
 思考の単位は、記憶心像である。記憶心像の整理には、言葉が重要な働きをしている。相手の言葉を理解するには、社会共通の言葉の意味を知っておく必要がある。意味の記憶は、何度も繰り返し経験することで少しずつつくり上げていく記憶である。
 繰り返すと同じ神経回路が活動する。同じ神経回路が興奮すると、その回路を作っている神経細胞神経細胞との繋がりはだんだん強固になり、一回だけの記憶だと忘れてしまうことでも、忘れにくくなるのです。

 知能とは、常に変化し続ける状況合わせ、その時にもっとも適切な行動を選び取る能力である。ある状況に最適な行動を起こすには、複数のプランが必要である。前頭前野は、複数の行動プランを同時に想起して、その中からその時の状況にもっとも適切なプランを選択し、それを実行するという役割を担っている。

 わが家の縞ちゃん(猫)は、言葉を持たないので、記憶心像を整理することができないはずだが、彼女はどのようにして最適な行動を撰んでいるのだろう?逆に私たち人間は、目で観た世界をいちいち言葉に変換して理解している。
 そして、言葉を繰り返す程、神経細胞の繋がりが強化されるということは、思考や考えたことを書いて整理することを繰り返す人ほど、複数のプランを立案し、その中から最適な行動を選び出す力があるということだ。このような駄文を記述することも、記憶心像の整理に役だっていると信じたいものだ。

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生と死についてわたしが思うこと

 

生と死についてわたしが思うこと (朝日文庫)

生と死についてわたしが思うこと (朝日文庫)

 
 自分の利益のために、時として、相手の信仰心すら利用しようとする者がいる。行使された行為によって命まで奪われる人、罪を犯す人、その結果が、やがて自分に撥ね返ってくることを、なぜわからないのだろうか…
 最近、思っていること…成長するということは、自分の主観の中に、客観(間主観)を取り込んでいく、ということではないか、ということ、

 姜尚中さんの本を読むと「より客観的になるためには、もっと社会のことを知らなければならないということ、そして、日本人として逃れられない、固定された視点から、外国人の視点、在日の人の視点なども可能な限り取り込んでいかなければならないということ」を考えざるを得ません。

 世界の緊張は、為政者として客観性が不足している(あえて見ないようにしている)人が政権を握り続けている(その人を選ばざるを得ない)ことによるものではないでしょうか?

 企業が目指すべきものは、存続だと思います。存続するためには、目先の利益ではなく、社会や顧客の生活に貢献することによって、正当な評価を得る必要があります。それは、国家も同じではないでしょうか、目先の利益で、政策を決めてはいけません。どちらの選択が存続に繋がるのかを……
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正義という名の凶器

 

正義という名の凶器 (ベスト新書)

正義という名の凶器 (ベスト新書)

 
・この本は、ある意味、もう一つの『未来の年表』なのかもしれません。少子高齢化による人口減少がもたらす影響は、大きなものですが、匿名という隠れ蓑に守られた中から、客観性のない正義を振りかざす人による暴力は、社会を蝕むかもしれません。
 私は、この本についての感想・レビューを書く前に、『正義という名の凶器』という言葉を定義づけする必要を感じ、あえて「凶器になりかねない正義」と言い換えました。それを行使する人たちは、意外と古い価値観を呼び覚まされた顔のない集団なのかもしれませんね。

 凶器になりかねない正義とは、自己に対して客観的ではない特定の集団、あるいは個人的な価値観に支えられた行動原則だと思います。誤解を恐れずに言えば、何らかの原理主義とも考えられます。凶器になりかねない正義とは、そのような価値観を持つ特定の集団や個人によって行使されます。
 
 インターネット社会においては、そのような行為が仮面を被った状態で行われ、そこに"はやしたてる観衆"や"傍観者"も加わって拍車がかかりやすくなります。"観衆"の調査能力は驚くべきもので、加害者のプライベートは暴かれ、家族も連帯責任を負わされます。

 この本は、積読になっていたのですが、2018年から2019年への移り変りの中で手に取ったということに運命を感じるような内容でした。2ヵ月に渡って仏教について学んでいなければ、素直に受け止められないような、衝撃がありました。
 
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もう、怒らない

 

もう、怒らない (幻冬舎文庫)

もう、怒らない (幻冬舎文庫)

 
「情けは人のためならず」ではありませんが、慈悲の心も、周囲だけではなく、自分自身の心を清めてくれるんですね。勉強になります。
 先日、アルボムッレ・スマナサーラ長老の『怒らないこと』と『怒らないこと2』を続けて読みました。いずれも翻訳ではないのかもしれませんが、やはり言葉の壁を感じ、きちんと理解できたとは言えない感じが残りました。そんな時、小池龍之介さんの『もう、怒らない』に出会いました。この本は、まるで、スマナサーラ長老の言葉を、日本人の私にも分かりやすいように噛み砕いているような内容でした。私は、歳をとって、いっそう怒りっぽくなっていることを自覚していますが、その苛立ちの原因と、怒りが自分の心を蝕むことを知ることができました。

 欲、怒り、迷いという負のエネルギーは、発散どころか、心の中で反芻されることによって増幅し、自分の心を蝕んでしまうんですね(・_・;) 気をつけないと…

 「自分が不当に扱われた」と感じた時、誰だって相手に対する敵意が頭をもたげてしまいますよね。でも、そんな時は、相手を憐れむことで、心を鎮めましょう(^▽^)/
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どうせ死ぬのになぜ生きるのか

 

 

精神科医である名越先生が、到達した仏教の教え。そこには、理屈や西洋医学では解決できない問題を解きほぐす言葉にできない身体的な世界があるようです。
 表題の問いに対する答えは、読者それぞれが、これまでの人生の中で経験したことによって定義づけられているのではないか、と思いますが、名越先生のもとを訪ねる患者さんはともかく、多くの人は、このような問いを意識しないで、それこそ、ジャックラカンが言うところの他者の欲望を模倣しながら生きているように見えます。仏教は、そのような生き方に問いと答えを投げかけているのかもしれません。

 私自身は、「どうせ死ぬのに」という部分を、あえて避けているのかもしれませんけど、「なぜ生きるのか」という疑問が目の前に立ち塞がることはあります。そんな時、自分を納得させる回答は、既に背負ってしまった責任を果たすためであったり、家族とささやかな喜びを噛みしめるためであったり…いずれにしても「どうせ生きるのなら、明るく生きたい」とするならば、「できれば一日の始まりに近いところで、掛け値なしの爽やかな一瞬をつくっておく」と良いらしです。そして、そのピークはほんの10秒ほどであったとしても、朝の爽やかな自分の方が本来の自分だと感じられるそうです。
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美しい「所作」が教えてくれる幸せの基本

 

美しい「所作」が教えてくれる幸せの基本 (幻冬舎文庫)

美しい「所作」が教えてくれる幸せの基本 (幻冬舎文庫)

 

 

・美しい「所作」は、相手に礼を尽くすためだけではなく、むしろ自分自身の心を爽やかにする効能効果が大きい。もしかしたら、良いことが輪廻転生するかもしれません。
 美しいものほど、長い歴史をかけて築かれたものであり「誰にとってもこころよいこと」。「平常心是道」…いつもどおり当たり前のことをやることが大切であり、それが悟るということでもある。「悟り」は、「安らかな心」というふうに言い換えてもいい……。
 美しい所作を意識すると、必然的に自分の動作を意識することになりますし、ゆっくりと丁寧な動きになり、そこには、怒りの感情が入り込む余地がなくなります。何事も急いだからといって早くできるとは限りません。むしろ、一つひとつの動作を意識して一発で仕上げることが成功の秘訣です。

 辞書で「智慧」を見ると、「煩悩を消滅させ、義理を悟る精神の働き」と説明されているとのことです。私たちは、様々な「欲」を追い求めて、その「欲」さえ満たされれば、満足できるはずだ、と思って日々を過ごしています。しかし、満たされれば「欲」は、新たな「欲」を生み、新たな「不満」の元になるのです。

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怒らないこと2―役立つ役立つ初期仏教法話

 

怒らないこと 2―役立つ初期仏教法話〈11〉 (サンガ新書)

怒らないこと 2―役立つ初期仏教法話〈11〉 (サンガ新書)

 

 

・なにかをやろうとするときには、欲でするのも、怒りでするのもだめなのです。必要なのは、喜びを感じることです。喜びこそが「生きることは苦」という現実を緩和してくれます。
> 勉強はできれば怠けたいけど、やらなくてはいけない。だから奮い立たせる。ライバルをつくってその人を「軽視」して「俺の方がすごい」と思ったりします。このやり方では、結局うまくはいきません。「ライバルに勝ちたい」だけで「勉強したい」という気持ちは無いから…。~
 アルボムッレ・スマナサーラ長老は、私たちの心が「怒ること」によって蝕まれることの恐ろしさを繰り返し突き付けてきます。長老の眼には、それだけ私たちの築き上げた社会が、自分だけが幸せになりたいという、怒りのエネルギー突き動かされているように見えるのでしょう。

 人には、「誰かの役に立っている」という実感が必要です。小さなことでも、「私はけっこう役に立っているんだ」と思えれば、楽に生きられます。なにかしらできることはありますから、それをしっかりとやればいいのです。~
 長老は、仰います。「生きることは苦」です。そして「それでも苦は嫌だ」というのが生きるシステムです。しかしながら、一切のものごとは無常で、けっして一瞬たりとも同じではありません。「それなら、しがみついたって価値がないだろう」と諦めて、無執着の心が生まれるのです。それを仏教は「覚り」と呼びます。

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